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STORY

03

歴史

POINT.01

三ヶ日みかんの起源

三ヶ日でのみかん栽培の歴史は江戸時代中期にさかのぼり、西国視察で持ち帰られた紀州みかんの苗木を植えたのが始まりと言われています。三ヶ日の土は酸性でやせた赤土だったため、米や野菜づくりには向いていませんでした。当時の三ヶ日の人々にとって、水はけの良い三ヶ日の土地に適したみかんは貴重な作物っだたのです。
明治に入ると、温州みかんの栽培が本格化します。温州みかんは種がなく味の良い大玉のみかんで、現在日本で食べられているみかんの祖先にあたります。三ヶ日では平成元年に普通温州みかんの品種を青島温州に一本化し、自然環境に合った育て方や貯蔵法の確立に注力してきました。今では、三ヶ日は国内最大の青島温州産地となっています。

POINT.02

先人たちの歩み

三ヶ日のみかん栽培にとって、明治は躍進の時代でした。病害虫の防除や樹の剪定技術が向上したことで、栽培面積は100ヘクタールを超え、収穫量も向上しました。天然由来の肥料から配合肥料への転換により、樹にしっかりと栄養を供給できるようになり、果肉の締まった甘みの強いみかんが作れるようになりました。また、みかんの浮皮も改善され、輸送や長期間の貯蔵も可能となります。
その後の自然災害や価格低迷によりみかん栽培は下火となりますが、そんな中でも、生産者たちは栽培技術や販売方法の見直しに着手しました。樹高を抑えて余分な枝を取り払ったり、防風林を整備したりすることで、風による落果や枝折れへの対策を行いました。
販売においても、いくつかの地区でまとまって出荷組合を立ち上げ、共同出荷を始めました。これまでの「山売り」は収穫直後のみかんを仲買人が買い取る方法でした。値崩れを起こしやすく、取られる手数料も大きかったといいます。そこで、自分たちでみかんの貯蔵を行い、出荷時期を調整することで、価格を高値で安定させることに成功したのです。

POINT.03

持続可能な産地へ

高齢化と担い手不足が叫ばれる農業界ですが、その中でもみかん産地は厳しい状況にあります。みかん畑のほとんどは傾斜地にあり、機械化できていない作業も多くあります。産地をつないでいくためには、生産者が栽培面積を広げられるような作業体系をつくり、その暮らしを豊かにしていかなければならない。三ヶ日では、みかんの運搬や資材の散布を機械化できるよう、畑を整備してきました。
おいしいみかんを作り続けるためには、樹も健やかでなければなりません。みかんの樹は、毎年実をつけるために多くのエネルギーを消費します。次の年、さらにその次の年のことも考えて、樹を良い状態に保つことが重要なのです。JAみっかびの生産者は、しっかりと根を張らせるための土づくり、樹のバランスを整えるための剪定や摘果の技術を磨いています。また、子供たちの世代のために、樹勢の落ちた樹の改植にも取り組んでいます。