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三ヶ日みかんの歴史 ~一大産地はこうして形成された!~

三ヶ日みかんの歴史 ~一大産地はこうして形成された!~


はじめに

愛媛みかん、有田みかんと並ぶ日本三大みかんのひとつ、三ヶ日みかんの産地として知られる静岡県浜松市三ヶ日町。この地でみかん栽培が始まったのはなぜでしょうか。今回は、三ヶ日みかんの栽培の歴史を紐解きます。



江戸時代のみかん栽培

紀州みかんの導入

三ヶ日にみかんが初めて導入されたのは、今からおよそ300年前の江戸中期、享保年間(1716年~1736年)だと言われています。西浜名村(現三ヶ日町)平山地区の山田弥右衛門が西国、すなわち現在の西日本に巡視に行き、紀州那智地方(現和歌山県)から苗木を一本持ち帰って庭の片隅に植えました。

このとき弥右衛門が持ち帰った苗木は、「紀州みかん」と呼ばれる種が多い品種で、甘みや香りが強いことから人々に好まれました。そこで、弥右衛門はこの紀州みかんの苗木を増やし、家の近くに数十本のみかんの木を植えて栽培をはじめたほか、近隣にも苗木を譲って西浜名村全体にみかんの栽培を広めました。

なお、弥右衛門と同時期に同じく平山地区の森田忠蔵が紀州みかんを持ち帰って庭に植えたと言われており、山田弥右衛門、森田忠蔵の2名による紀州みかんの導入が三ヶ日町のみかん栽培のはじまりとされています。



温州みかんの導入

紀州みかんの導入によってみかん産地として歩み始めた三ヶ日町ですが、江戸後期にあたる天保年間(1830年~1843年)にもたらされた温州みかんの普及によって、一大産地として成長をはじめました。紀州みかんを三ヶ日に持ち帰った山田弥右衛門、森田忠蔵と同じく平山地区の加藤権兵衛が、三河の国吉良地方(現愛知県)から温州みかんの苗木を購入して庭園に植えたのが始まりと言われています。

温州みかんは、果実が大きくて種子がなく、味も良いことから、現在食用にされているみかんの主流となっている種類です。

当時、三ヶ日町でみかんを栽培していた農家も、温州みかんに魅力を感じていたようです。しかし、江戸時代は土地は領主のものだったため、農家が自由に栽培する作物を選ぶことができませんでした。そのため、三ヶ日町で本格的に温州みかんの栽培が広まったのは明治時代に入ってからと言われています。



明治時代のみかん栽培

温州みかん栽培の広がり

明治時代に入って藩が廃止され、農地が農民のものとなったことにより、三ヶ日町での温州みかんの栽培が一気に加速しました。『三ヶ日町史』には、明治8年頃に篤農家の夏目喜平が温州みかんの栽培に着手したとの記録が残っており、明治初期以降は資産家を中心に温州みかんの栽培が普及したと考えられています。

その後、明治中期から後期にかけて年間収穫量は1000tを超えるようになり、栽培面積も100ha以上にまで拡大しました。しかし、明治時代の中ごろから大正時代の中ごろまでは、養蚕が盛んでみかんの栽培はクワの栽培に押され気味でした。

当時は、蚕(カイコ)が産生する生糸から絹織物を作って高値で海外に輸出する政策が取られており、国を挙げて養蚕に取り組んでいたのです。クワのほかに、畳の原料として知られるイグサの栽培も盛んにおこなわれており、みかんとクワ、あるいはみかんとイグサを組み合わせて栽培をおこなう農家が多かったと言われています。

時代を先取り~早生温州の導入

温州みかんの売れ行きが良くなるにつれて、もう少し早く熟するみかんがあるのではないかと考えた三ヶ日町のみかん農家、山田政治が早生温州の導入に乗り出しました。広島県大長村(現広島県豊田郡)で盛んに栽培されていた早生温州を持ち帰り、15aほどの畑に植えたのが始まりと言われています。

当時の早生温州は「青江早生」と呼ばれる種類で、炭疽病をはじめとする病気にかかりやすかったり、実が色づく前に裂果したりと品質はあまり良くなかったそうです。さらに、先祖返りが起こる品種で数十年後には熟す時期がほとんど普通のみかんと同じ頃に戻ってしまうという難点もありましたが、早期に収穫できることは大きな魅力で、三ヶ日みかんの消費拡大に貢献しました。

炭疽病

  • 糸状(カビ)が原因で発生する病気です。
  • 極早生や早生のみかんで発症しやすく、果実が日焼けした部位に症状が現れます。
  • 枯れ枝が感染源となることが多く、最初は実の表面に黒ずみが生じ、熟すにしたがって茶褐色に固くなります。

みかんを健康に育てる!病害虫防除のはじまり

江戸時代から明治時代の間は、現在に比べて栽培技術は低く、薬剤の散布もまったくおこなわれていませんでした。したがって、結実した果実のうちで売り物にならないみかんが相当数出ていたと言われています。

病害虫を防除するために最初に試みられたのはボルドー液の散布でした。若手農家で組織された『平山尚農会』を中心に平山地区内のみかん園に共同散布がおこなわれた結果、ソウカ病をはじめとする病気の防除につながり、生産者には大いに喜ばれました。

共同での農薬散布はその後のみかん農家の組合設立につながっていきました。



大正時代~現在 -産地としての確立-

明治末期から大正時代にかけて、病害虫の防除をはじめとするみかんの栽培技術が一つ一つ確立されました。その結果、みかんの生産量が急激に増加しただけでなく品質の向上が図られました。

組合の成立

大正2年に『引佐群柑橘同業組合』が設立されたことで、病害虫防除や肥培管理の技術が広く普及するようになりました。病害虫防除に関しては、ボルドー液に加えて、当時「酸曹液」や「太陽液」の名称で販売されていた石灰硫黄合剤を自家調整して散布する方法が広まりました。

やがて、農家が共同で農薬を調整するようになり、農薬の共同購入が始まりました。これによって、ソウカ病だけでなく赤ダニやサビダニによる被害も防げるようになり、見た目がよく品質も高いみかんが作れるようになりました。

また、肥培管理においてはニシンや厩肥、人糞などから配合肥料への転換が進められ、果肉が締まった甘みの強いみかんが作られるようになりました。それまでは、みかんの皮が浮きやすくて貯蔵に向かず、遠隔地には輸送できないことが難点とされていましたが、石灰やリン、カリウムを配合した肥料を使うことによって長期間の貯蔵が可能となりました。現在では、貯蔵みかんはJAみっかびの主力商品のひとつとなっています。

海南組柑橘園と中川宗太郎

米騒動に端を発した不況の波によって、みかんの生産増強にブレーキがかかり、荒廃園が現れる状況になりました。さらに、養蚕業が盛んになりみかんの木を引き抜いて代わりにクワを植えることもおこなわれました。

そうした経済的な混乱やみかんの価格低迷、養蚕の好況が影響していたことに加えて、冬季の寒風によってみかんの木が被害を受けたり、農家の技術が未発達で管理が不十分だったりしたことがみかん栽培の後退の原因でした。

そんな中で三ヶ日みかんの振興に貢献したのが、三井財閥により大正7年に設立された『海南組柑橘園』です。大正9年に専任技術員として『海南組柑橘園』に着任した中川宗太郎を中心に、三ヶ日の土地や気候にあったみかん栽培技術が広められました。

特に、木を低く剪定して余分な枝を抜き、風による落果や枝折れを防止したり、マキの木を防風林としてみかん園の周囲に植えることで冬季の季節風を抑えたりする方法が伝えられ、土作りや病害虫防除の大切さとともに三ヶ日みかんの生産量の増加につながりました。

共同出荷が開始!

みかんの販売面においては、従来の「山売り」「商人売り」から数地区合同の出荷組合による共同出荷が始まりました。山売りとは、仲買人が園主からみかんを買い取って手数料を得るという方法で、みかん農家の手元に残るお金が少ないことから改善が求められていました。

生産者たちが自前でみかんの貯蔵をするようになったことで、みかんの価格を高値で安定させることが可能となり、みかん産地としての確立につながりました。



おわりに

今回は三ヶ日みかんの歴史についてご紹介しました。

三ヶ日町では、三ヶ日みかんの発展に尽くした山田弥右衛門、加藤権兵衛、中川宗太郎を「三大恩人」と呼んでいます。三ヶ日町を見渡せる稲荷山公園には、その三人への感謝を込めて記念碑「柑橘頌徳碑(しょうとくひ)」が建てられています。また、毎年11月には、三大恩人への感謝とみかん産業の更なる発展への祈りを込めて三大恩人の子孫らが集まり「柑橘頌徳祭(しょうとくさい)」が開かれています。

三ヶ日みかんの三大恩人
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日本三大みかんのひとつとして知られる三ヶ日みかん。三ヶ日がみかんの町として知られるようになった背景には、三ヶ日みかんを支えた3人の人物の存在がありました。今回は、三ヶ日みかんの三大恩人、山田弥右衛門、加藤権兵衛、中川宗太郎と三ヶ日みかんの関わりについてご紹介します。
https://mikkabimikan.jp/blog/16


歴史を紐解き、三ヶ日みかんがたどってきた道に思いをはせると、三ヶ日みかんがよりおいしく感じられること間違いなし!ご関心のある方は、三ヶ日みかんを生み出した三ヶ日の地をぜひ訪問してみてください。

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